‟ご褒美ご飯”に必ずランクインするといっても過言ではない鰻と焼肉。その両方を一緒に食べられる店として評判なのが渋川市にある「うなぎ 炭火焼肉 宮川」さん。国産の上質な鰻や肉が味わえる店としても話題で、都内や関西から訪れる人もいるほど。アットホームな雰囲気も魅力の同店で、1代目の宮川智男さん・永子さんご夫婦と2代目の和典さん・真由美さんご夫婦に、創業から現在に至るまでの話を伺った。
最初は鰻屋さんとしてスタートしたそうですが、家業を継がれたのですか?
宮川智男さん:うちはもともと親父が穀屋をやってたんだ。「米はみんな一生食うから穀屋やろう」ってね。当時は市内に4軒あったけど、うちだけ道路の調整区域になっちゃって辞めざるを得なかった。当時20歳くらいかな、それから建築関係の仕事を始めたんだよ。高崎の訓練所に半年くらい通って勉強してさ。この家も25歳の時に自分で建てたんだ。基礎工事も鉄筋加工も全部1人でやった。倅が焼肉始める時に3階にしたんだけど、最初は2階建てだった。
永子さん:お父さんは何でも自分でやる人なんですよ。お父さんが27歳、私が25歳の時に結婚したんですけど、その時もこの家が役に立ったの(笑)。私の父が「家を持っている人じゃなきゃ嫁に出せない」って言ってね。通っていたお茶とお花の先生に相談したら、その人がたまたまお父さんのいとこだった。「いるわよ、家持ってる人!」って。それでお父さんとお見合いして結婚したの。お家があるためにね(笑)。
その後、お義父さんから「話があるから」って私だけ呼ばれた時があった。何だろうってドキドキして行ったら「とにかくいい子だから、後は頼んだよ」って。その3日後にお義父さん亡くなったんです。
いいお話ですね。では、建築のお仕事から鰻屋さんに転向されたのですか?
智男さん:いや、その前に釣り堀をやったんだったな。建築関係の仕事がいくらか下火になっちゃったんだよ。建築の仕事は個人的にやっていて、ブロックの施工なんかもしてたんだ。それで、自分で池を作って室内の釣り堀を作った。もちろん今はなくなっちゃったけど、そこの調理場のあたりだよ。
永子さん:釣り堀で鰻や鯉を泳がせてたんですよ。そこで、私がビビビッと思ったわけ!「これを調理して出したらどうだろう」って。
智男さん:それで昼間は釣り堀やって、夜間は調理師学校へ通った。1年半くらいかなぁ。釣り堀の魚は親戚のおばさんの紹介で、前橋にある茂田さんっていう問屋さんから仕入れてたんだ。茂田さんちでも鰻の蒲焼きを出していて、食べさせてもらったら旨くてねぇ。それに魅力を感じて鰻の店やりたいと思うようになった。そしたら、茂田さんちの息子が体調壊しちゃってさ。「手伝ってくれないか?」って話になったんだよ。半年くらい手伝いに行ったかなぁ。鰻を焼く感覚は全部そこで身につけさせてもらった。
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